【大駐車場完備】西側駐車場に20台、東側駐車場に7台 駐車場あり
【寺院名】真宗大谷派夕照山 西光寺【住所】愛知県愛西市稲葉町本郷200
【お寺の場所】愛西市市役所東300メートル・稲葉交差点南50メートル

愛西市西光寺の歴史

西光寺の歴史

  古い寺伝によれば当寺は元天台宗で諦善(文永9年(1272)5月死亡)が創立した。その頃より伝教大師作といわれる聖徳太子立像を安置している。元美濃国の幡長という所にあったが中島郡の三宅村(現平和町)に移ると、当時の領主橋本伊賀守の菩提所となった。
 明応3年(1494)法順が浄土真宗に改宗し現在地に移動した。当寺所蔵の画像阿弥陀如来には明応3寅年蓮如上人の裏書がある。 当寺過去帳によれば当山開基は本誓院釈西元法師で命日は明応3年(1494)3月3日。この人が法順かと思われる。
 また尾張藩二代藩主光友公(瑞龍院)のころ名古屋旧立杉町の芦沢佐左衛門家から当寺へ嫁してきたのが円照院釈姓雲秋夕(寛延四年(1751)没)。その義理の子が当寺第5世の義天で光友公より葵御紋つきお茶入れとお菓子入れを拝領した。その後、尾張藩四代藩主吉通公に九条輔実公の息女がお輿入れされた際、九条家家老の石井備後守の娘がお供して来た。この者は尾張藩五代藩主五郎太様を養育し、尾張藩六代藩主継友公にお仕えした後義天に嫁してきた崇心院妙渓信女(宝暦4年(1754)没)である。その御縁で九条家から数多の寄付をいただいた。さらにこれらの縁故で尾州公から特別に永世社寺奉行直達の由緒および提燈、幕に葵の御紋を許可された。しかしその後、「公共事業(成正学校=後の佐屋小学校)の資として売り払われたり、明治九年の伊勢暴徒の火災によって焼失したりし、残ったものは僅かになった。」と記録されている。
 また慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いの際、尾張徳川家は朝敵の名を蒙ったが勅命により朝廷側についたのだが、同3月、勤皇の立場を明確にした東本願寺第二一代嚴如上人が当寺本堂においでになり直命されたとの記録もある。

美濃国幡長から中島郡三宅村,そして現在の愛西市稲葉町へ

  西光寺は、下記の住所を3度移動したと伝えられています。ただ、移動時期については残念ながら、まったくわかっていません。

 

   移動地図

①美濃国海西郡幡長村(現在の岐阜県海津市平田町幡長)

②尾張国中島郡三宅村(現在の愛知県稲沢市平和町中三宅)

③現在の愛知県愛西市稲葉町本郷200番地




【本願寺とは】親鸞聖人の門弟らが聖人の遺骨を大谷から吉水の北に移し、廟堂を建て宗祖の影像を安置したことに起源する。第3代覚如上人の頃、真宗本廟は「本願寺」の寺号を名のるようになる。第8代蓮如上人は、その生涯をかけてひろく民衆に教えをひろめ、本願寺教団をつくりあげられ現代にいたる。
西光寺開山】諦善法師
【宗旨】   浄土真宗
【宗祖】   親鸞聖人
【西光寺山号】夕照山
【宗派】 真宗大谷派(お東)
【中興の祖】 蓮如上人
【現住職】 第十五代
【ご本尊】 阿弥陀如来
【ご本山】 東本願寺・真宗本廟
【正依の経典・お経】仏説無量寿経(大経)、仏説観無量寿経(観経)、仏説阿弥陀経(小経)
【七高僧とは】親鸞聖人が選定された7人の高僧のこと。「正信偈」や「高僧和讃」に示してある。以下がその七高僧になる。 
  【第一祖】龍樹大士 【著作】『十住毘婆沙論』、『十二礼』 
  【第二祖】天親菩薩 【著作】『無量寿経優婆提舎願生偈』
  【第三祖】曇鸞大師 【著作】『無量寿経優婆提舎願生偈註』、『讃阿弥陀仏偈』
  【第四祖】道綽禅師 【著作】『安楽集』
  【第五祖】善導大師 【著作】『観無量寿経疏』、『往生礼讃偈』
  【第六祖】源信和尚 【著作】『往生要集』
  【第七祖】法然上人 【著作】『選択本願念仏集』
【仏教とは】紀元前6世紀ごろお釈迦さまによって説かれた仏になるための教え。人生は苦であるということ(四苦八苦)から出発して八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教のひとつ。
【浄土真宗とは】鎌倉時代の初めに法然上人の弟子の親鸞聖人によって開かれた浄土教の一派。阿弥陀仏の浄土に生れて悟りを開くことを目的とし、阿弥陀仏の力で救われる絶対他力により信心だけで往生できるとする。真宗とも称し,一向宗,門徒宗などとも呼ばれる。真宗は主に十派あり、本願寺は蓮如上人により興隆したので、蓮如上人は中興の祖と呼ばれる。
【真宗十派とは】真宗大谷派(東本願寺)、浄土真宗本願寺派(西本願寺)、真宗高田派、真宗佛光寺派、真宗興正派、真宗木辺派、真宗出雲路派、真宗誠照寺派、真宗三門徒派、真宗山元派
【寺院とは】仏閣、僧院ともいう。一般的には仏教において、仏像を安置し僧侶などが住み、仏道の研究や布教活動のための修行や儀式を行う場として用いる建物を指す。日本では、古くは山の中に僧侶の修行の場として寺院が建てられたが、のちにお寺は人々の住む町の中につくられ、城下町にも寺院が造られた。江戸時代には、キリスト教を禁止するため、人々はいずれかの寺院に属さなければならないとする檀家(だんか)制度ができお寺は身近なものとなった。
お墓の歴史】現代のような墓石を使ったお墓が建てられ始めたのは江戸時代の元禄年間の頃である。ただ当時は権力者などが中心で一般の人々には縁遠いものでした。一般の人々がお墓を建てられるようになったのは、昭和の初期から戦後高度経済成長で人々が豊かになってからだと言われている。最近ではお墓の代わりに納骨堂や自然葬(散骨樹木葬、海洋葬)なども見られる。またお墓を作るには、 墓地、埋葬等に関する法律及び墓地、埋葬等に関する法律施行規則に従い許可が必要となる。
納骨堂の歴史】納骨堂の歴史は古く奈良時代に発掘されたものの中にも見受けられます。当時は霊廟と言われ、墓石が江戸時代に誕生したのに比べ納骨堂の歴史はとても永く続いています。
葬儀・葬式の歴史】葬儀の歴史は古く、数万年前のネアンデルタール人の遺跡からも葬儀らしき痕跡が発見されており、日本では縄文時代の遺跡に、腕を曲げて体を負った状態で葬られた屈葬が発見されている。現在日本では火葬が主流になっているが、7世紀以前の仏教が伝来する前は土葬が当たり前であったようである。葬儀の形式も一般葬以外に、家族葬、生前葬、音楽葬、自由葬、個人葬、密葬、直葬などさまざまな形がある。真宗大谷派の葬儀式はここをクリック